VIRGIN DUCATI | Tony Rutter (トニー・ラッター) ドゥカティ人物辞典

Tony Rutter (トニー・ラッター)

  • 掲載日/2011年03月30日【ドゥカティ人物辞典】

ドゥカティをマン島の覇者に導いた大器晩成の英国人レーサー
トニー・ラッター Tony Rutter(1941-)

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ドゥカティ600ccLツインとラッターは抜群に相性がよく、マン島TTで4年連続の優勝を果たした。

マン島TTで4年連続優勝した
ドゥカティとラッター

トニー・ラッターは、マン島TTレースで7回、アルスターGP(1942年から1971年まで北アイルランドのクラウディサーキットで開催されたレース)で6回など、おもに公道レースやショートサーキットを得意としたイギリス人ライダーだ。そして彼はイギリス国内の有名なサーキットのほぼすべてでラップレコードを打ち立てている。

しかしそのレース人生のはじまりは遅く、彼が21歳のときだった。しかし彼が世界中のバイクファンを驚愕させるレコード、世界TTフォーミュラ2選手権で4度の優勝という素晴らしい記録を残したとき、彼は40歳を過ぎていたのだ! そして彼はそのとき、世界の公道レースにおけるトップ10ライダーのひとりであったのだ。

遅咲きのスーパーレーサー、そんなトニー・ラッターのレース人生を見てみよう。

前述したように、ラッターのレース人生のスタートは彼が21歳のときだ。1962年、BSAゴールドスターを改造したレーサーで9位フィニッシュしたことを皮切りに、350ccマンクス・ノートン(これはきちんとしたレーサー)に乗り換えると、ラッターはイギリス国内のサーキットで優勝を繰り返した。そして1965年、マン島TTレースに出場したラッターは練習走行中に転倒して足を骨折するが、なんと決勝レースを完走してしまう。世界GPでは優勝することができずにいたが、イギリス国内選手権では数多くの勝利を得てキャリアを着実に積み上げていたラッターは、世界でも指折りのレーサーとして知られていった。その後、ヤマハに移籍した1973年にはマン島TTで優勝を果たす。

そんなラッターがドゥカティと出会うのは1981年のことだ。マン島フォーミュラTT2に500ccパンタ・スペシャルで出場、勝利をもぎとったラッターは翌年からドゥカティのファクトリーレーサーとしてマン島フォーミュラTT2を戦う。そして彼が長年走らせてきたヤマハの2ストローク2気筒を相手に勝利、連続優勝を打ち立てるとその後2年に渡って優勝し、マン島TT 4年連続優勝という記録を残すのだ。

「600ccのドゥカティは完璧なマン島TT用マシン」と、ラッターは語ったが、マン島TTだけではなく他の耐久レースでもラッターとドゥカティの速さは際立っていた。

1985年、5年連続優勝を目指していたラッターだが、モンジュイックF1レースにおいて多重クラッシュに巻き込まれ、時速240キロで転倒してコンクリートウォールに激突。骨盤、腰、両足、腕を骨折するという重傷を負ってしまう。数週間に渡り生死の境をさまよったラッターだが奇跡的に生命の危機を脱し、2年後にはレースに復帰するまでの回復ぶりを見せたのだった。

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